明治通り宮下地区の歴史

全国市制町村制によってこの地域は、明治22年〜昭和2年迄、渋谷村大字上渋谷町裏と云う名称でした。この間途中で、明治42年1月から渋谷村から渋谷町になる。更に経過して、昭和7年10月1日に区制が発足する。それに伴い、一部町名の変更があったが、宮下町と美竹町はそのままの町名で残存しました。
戦後、東京都により、明治通りの拡幅計画が実施され、宮下地区の一部が換地対象となり、幹線整備道路として、今日の明治通りになりました。
換地事業の結果、明治通りの山の手側宮下地区の地域減少と郵政業務の不便さから一部地域は美竹町という住所表示に変わりました。(昭和32年〜37年頃の間)この様な経過から、明治通り宮下地区は宮下町と美竹町の一部を包括して、二つの町を含めて宮下町会が発足(昭和34年8月1日)いたしました。そして、この地域は、昭和41年以降,制度変更に伴い渋谷一丁目に包含されました。
さて、この宮下地区は人間の身体に例えますと【おへそ】の部分ではないでしょうか?駅周辺にありながら、文教地区でもあり、早くから商店親睦会が存在していましたが、昭和62年に明治通り宮下商店会として発足いたしました。





宮下町
[近代]昭和3〜41年の大字名・町名。もとは豊多弁郡渋谷町大字青山北町7丁目・大字上渋谷字町裏・大字中渋谷字宇田川の各一部で、渋谷町の大字として成立。命名の由来は皇族梨本宮邸の下の区域であることによる。
昭和7年渋谷区の町名となる。昭和40〜41年現行の神宮前6丁目・渋谷1丁自の西半部となる。宮下公園にその名をとどめる。

美竹町
[近代]昭和3〜41年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字青山北町7丁目・渋谷宮益町・上渋谷字町裏の各一部で、渋谷町の大字として成立。命名は区域内にある御嶽神社にちなむ。昭和7年渋谷区の町名となる。<br>
同41年現行の渋谷1丁目の東半部となる。御嶽神社境内には「眼にかかる時やことさらさ月富士」の芭蕉の句碑がある。近くの宮益坂は「相模街道の立場にして、茶店酒亭」があってにぎわった(画報)。美竹公園にその名をとどめる。





梨本宮家について
昭和二十二年GHQから「皇族及び元皇族も財産税を納めよ」とい指令が出されました。
梨本宮家では本邸が戦災で焼け、財産税の納付に四苦八苦されました。
そこで第一に川口湖畔の別荘・熱海伊豆山の別荘から処分せねばなりませんでしたが、8割の課税は払いきれるものではありません。従いまして、本邸の土地の処分に入りました。
青山美竹町の御殿は約二万坪、現在の青山通りに第一園芸がありますが、そこが表門、それからダラダラ坂を下り、石垣の道を通って、現在高層マンション「青山ツインタワー」旧旭ガラスの社宅になっていますが、そこに御殿の玄関がありました。表門からは美しい桜並木で、梨本宮家の住居は東京都児童会館の所にありました。梅林の向こうに公孫樹の大木が繁り、ここが今の旧渋谷小学校、この広い土地を坪二円で買う時に、住んでいた小作人までつけてもらったのです。そのお百姓さんが宮家の野菜を専門に作っていました。



この広い焼跡の土地を三つに分けて処分して、どうにか財産税を払い国民の義務をはたしました。更に東京都が道路を作りたいからと崖を削り、なかば強制的に換地事業として、ほんの僅かな金額で売却させられました。
このように、雲の上から下界の荒波に老夫婦が投げ込まれ、小さな仮住居に老人二人が肩を寄せ合って、余生を送ることになりました。 
昭和三十四年、東海銀行が社員寮を建てたいから譲ってほしいとの申し出があり、生活苦から売却することにいたしました。
昭和四十六年頃から土地も上がり、それにつけて税金も増すばかりでした。税金を払うために土地を切り売りしては最後にはなに一つ残らない。そこで弁護士さんに相談して残っている土地僅か八百坪を整理することになりました。

宮家について
梨本宮家、第一代の伏見宮貞敬親王の第七王子、守修親王が慶応四年に門跡から復帰して、明治三年に梨本宮家を創立されました。第二代は山階宮菊麿王がお継ぎになりました。

この当時の宮家
東伏見宮・伏見宮・山階宮・賀陽宮・久邇宮・朝香宮・東久邇宮・北平川・武田宮・閑院宮


梨本宮殿下の略歴
梨本宮殿下は明治七年三月九日、久邇宮故朝彦親王の第四王子として生まれ、第三代の梨本宮様。明治三十年、当時は陸軍歩兵少尉に任官され、二十三才で広島の十一連隊に所属いたしておりました。適齢期を迎え宮内省のお膳立てで、鍋島藩の鍋島伊都子(十五歳)と婚約、明治三十三年結婚式をあげました。ご結婚の当初は麹町一番町の宮御殿に居住され、伊都子君懐妊・出産後は時折休養をかねて杉・松・梅・栗の林等がある青山別邸ですごされたようです。
明治三十九年十月、いよいよ青山に本邸を新築することになりました。建物については京都別邸の広大な書院造りの一棟を解体して、東京に運ぶ工事から始まりました。明治四十三年、晩秋に建坪七百坪、京都御所のような堂々たる建物が整備されました。尚、宮様はこの年、陸軍歩兵大佐に昇進連隊長になりました。昭和二十年五月二十四日御殿全焼。GHQは宮様が、たくさんの肩書きから日本の指導者の一人と思い皇族でただ一人戦争犯罪人として指名され巣鴨拘置所に出頭されました。
宮様は、昭和二十六年正月元旦六時五十分心臓麻痺により永き眠りにつかせられました。

梨本宮妃殿下(明治38年撮影)
拝領の生地で仕立てたロープコルテを着て
 
パリ滞在中(明治42年撮影)



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